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zoom RSS 豊川海軍工廠平和公園にて平和の有り難さをかみしめる

<<   作成日時 : 2018/10/22 23:59   >>

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今日も頑張って17500歩ほど歩いたまろぱぱです。

連日の長距離散歩でだいぶ腰とひざが痛くなってきました。
体重が増えるとろくなことが無いですね、やっぱり。

スキーシーズンに膝腰を痛めないよう頑張って筋肉を付けつつ体重を絞りましょう。

ということで、市内小中学校作品展見学とウォーキングしかしていなかったこの週末ですが、もう1ヶ所訪ねていたのがタイトルの豊川海軍工廠平和公園

今年オープンしたばかりの新しい公園できれいな芝生に立派な巨木が目に飛び込んできます。
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平和公園ですが一応遊具もあるので早速遊具に取り付くソースケ
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得意のウンテイを披露
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しかしこの遊具は完全におまけで小さいお子さんが退屈したら遊ばせる程度の施設。

ここで見るべきは公園内に残る豊川海軍工廠の史跡

豊川海軍工廠とは・・・HPより抜粋
豊川海軍工廠は、海軍の航空機や艦船などが装備する機銃とその弾丸の主力生産工場として、昭和14(1939)年に開庁した巨大兵器工場で、日中戦争から太平洋戦争、終戦に向かった日本の戦前の昭和史を如実に示す存在です。当初は機銃部と火工部の二つの造修部門でしたが、戦局の拡大と呼応し昭和16(1941)年に光学部、18(1943)年に指揮兵器部、19(1944)年に器材部が新設され規模を拡大していきました。

ウィキペディアによると
太平洋戦争では航空機が戦闘の主役の一つとなり、航空機用機銃と対空機銃の需要が高まり工廠は急速に発展した。1945年(昭和20年)2月時点での従業員は職員400名、工員10,000名、徴用工員40,000名、動員学徒6,000名、計56,400名となり東洋一の規模となった。また工廠周辺には電気、ガスの供給設備、男女工員寄宿舎をそれぞれ10カ所以上設置するなど、それらを含めると広さは330ヘクタールにも及んだ。

私が勤める会社は豊川海軍工廠光学部の系譜を引き継いでここに工場を作ったのかなと。
豊川海軍工廠の北東の角に敷地があります。


先ほどの大木の下にはこんなパネルに当時の工員さんの日記が。
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2500名以上の犠牲者を出した1945年8月7日の大空襲の様子まで・・・
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文字が読めるように大き目の画像を貼っておきました。クリックすると拡大してみることができます。

途中は省きましたが、米軍の日本侵攻が始まったばかりの頃は、ここで作っている豊富な機銃と弾薬でそれなりに応戦できていたようですが、最後の大空襲では動員学徒を含む大勢の若者がなくなる正に地獄絵図のようだったそうです。

ここに書かれていた空襲の際に工員たちが逃げ込む防空壕といわれるものの跡がこちら
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すっかり埋もれてしまってますが、屋根のないただの塹壕のようなもので近くに爆弾が落ちたらひとたまりもない粗末なものだったようです。

ここにB-29から500ポンド(約227s)もの爆弾が雨あられと投下されたのですからひとたまりもなかったことでしょう。

防空壕といえば洞窟のようなものを想像してしまいますが、この平地ではこれを作るのがやっとだったのでしょう。

しかしここで爆弾が爆発されたら大惨事必須な火薬庫はしっかりしたものが作られていたようです。
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旧第一火薬庫です。
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この火薬庫の側面
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この側面には500ポンド爆弾の着弾跡が残っています。
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コンクリート製の排水路のようなものは当時からの物だそうで、着弾によって一部が吹き飛ばされています。

そして驚いたことに火薬庫の内部は比較的良い状態で残っています。
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ちょうどここで解説ボランティアの方が説明をされていたので同行させていただくことに。

ここの史跡は基本的に施錠されており、ボランティアの方の説明を聞かないと史跡の中には入れませんのでご注意を。

もちろんボランティアというくらいなので無料でお話を聞くことができて、説明も頻繁に行われているのですごく待つということはないので、ここに来たら必ずボランティアの方の説明を聞きましょう。

本当はちゃんと受付で名前を書いて時間になったら説明を受けるということなのですが、後で名前を書けばいいと混ぜて頂きました。
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当時のままの換気口
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扉を開けて中に入ると調湿のためのヒノキ板張りが再現されていてヒノキのいい香りが。
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まあ当時はヒノキの香りなんて火薬の臭いにかき消されていたでしょうが。

外に対しては防爆対応か2重壁になっているそうです。
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それにしても下から照らすライトが作る影が幻想的
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先ほどの通路には今回の公園造成の際に発掘された水道バルブが置いてありました。
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なんと昭和14年製。
もう一つは昭和17年製で海軍の錨のマークが貴重だと説明されました。
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そしてこの公園のもう一つの目玉が小高い土塁の中にあります。

その土塁の上からの公園の眺め
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土塁の中には何の変哲もないこんな建物が
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旧第三信管置場です。
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ここもボランティアの方の説明を聞きながら中に入れます。
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錆びた工機がひっそり鎮座してます。

ここは爆弾の信管を保管していた場所で、万が一暴発しても大丈夫なように四方の壁は強固なコンクリ造ですが、屋根は爆風の力を逃がせるよう木造。
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ほとんど屋根や梁は残っておらずほとんど新しい木材で復元したそうですが、多少当時のままの木材も残っています。
古ぼけた茶色い梁が当時のままの物だそうです。

ここにも貴重な海軍の錨マークが。
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マークが残っているのはここだけではないかということでした。

この信管庫は念には念を入れて周りに土塁が築かれていますが、唯一の出入り口がこちらのトンネルだったそうです。
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その外には海軍工廠の夜を明るく照らしてたはずの街灯が残されていました。
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8機の街灯が両側に並んでいます。
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こうしてボランティアの方の説明が一通り終わったらお礼を言って資料館見学。

こちらも無料ですので行かれたら是非見てみてください。
ただし撮影禁止なので写真は無し。

15分程度にまとめられた説明映画も見ごたえがあるのでこちらも必見です。

海軍工廠の歴史やそこで働いていた普通の若者たちがどうやって亡くなったか。

どれだけ悲惨な死に方をしたか。

学徒動員で工場に働きに来ていて空襲に巻き込まれ亡くなった新城高校の女学生の写真が展示されてましたが、皆まだまだあどけなさが残っていてやりきれない思いで一杯でした。

その中の女学生が生前に両親に書いた遺書は結果的に本当に遺書になってしまい切なすぎました。
それを読んだ親御さんはどんな思いだったか・・・

今、世の中はどんどん嫌な方向に進んでますが、あの愚行を2度と繰り返してはダメだと改めて思いました。

子供や若者が悲しく辛い思いをする行為はどんな正義や大義があっても絶対肯定することはできません。

広島平和記念資料館程のインパクトはありませんがリアルに戦争の悲惨さを感じられるので近くの方は是非一度足を運んでみてください。

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